【風物詩】老人はなぜ命がけでモチを食うのか


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先日、ダウンタウン浜田雅功さんと、息子さんのハマ・オカモトさんのラジオでの対談が話題になっておりました。
その中で、気になったフレーズがあります。

 

浜田「23で、なんばグランド花月の入り口で並んで挨拶しとった頃と同じやねん。
だから50って言われると」
ハマ「数字で言われるとびびるよね」

 

 

テレビで見ている側からしても、あまり老けることのないダウンタウンのこと、
何か、その感覚はわかる気がします。

 

とはいえ、これだけスターダムにのしあがっても、感覚は当時のままなのか、という点は、
やはりその立場になってみないとわからないものでしょう。

 

 

誰しも、その時点が自分の実感値としての年齢、というものがあります。精神年齢が止まった段階です。
脳や肉体は年をとっても、精神はある時点でたいがい、成長を止めます。

 

言わば、魂の年齢ということでしょうか。

 

人は、自分の目で直接自分の姿を見ることができないため、時折鏡で見る以外は、魂の年齢の自分を想像してしまいます。

 

そこで、老人です。
23歳の青年が、モチを食うのに躊躇するでしょうか。
傍から見れば、その図は、老人がモチを食おうとしている、かなり危険な構図です。
赤ちゃんがタバコやシリカゲルを手にしてしまった感じです。
しかし、赤ん坊にしてみれば、自らは、タバコを吸う大人と同じ感覚だし、年寄りにしてみれば、23歳の自分と同じなので、なんら躊躇することはできません。

 

 

「私は自分で自分を客観視できるんです!」とブチギレた首相もおりましたが、これも同じ現象が端的に現れた例でしょう。

 

 

「ブチギレてるじゃん…客観視できてないじゃん…」とは、第三者的視点。

 

自らの中では、若く聡明な自分が客観的に状況を切ったという図が浮かんでおられたに違いありません。
人は常に、モチを手にした老人であるリスクを背負って生きています。
世の中と肉体はただ流れ、潮溜まりに取り残される魂。
それは時にスポーツとして、映画として人の心を打ったりします。
そんな時、人はモチを食っているのです。

 

 

自分の精神年齢と、実際の時の流れとのギャップを否定しようと生きる行為、それがモチ食いです。
彼らはモチを食うことで、若者である自分の魂を再認識する儀式であり、同時に、これから新しい年を迎えるにあたり、めでたいということにしてモチを食わせ、一定の淘汰を促すという制度的目的もあります。

 

考えてみれば、モチに飾りをつけてミカンを載せるなど、正気の沙汰ではありません。
若者の割礼、年寄りのモチ食い。コミュニティが知恵として残した伝統的通過儀礼なのです。そこに必要なのは合理的判断基準ではなく、ワッショイ感であります。

 

 

考えてもみてください。年寄りは、若者よりも遥かに、同世代や下の世代の死と対面しています。
中には南方に散っていった戦友もいたでしょうし、シベリア抑留の果て、祖国の血を踏めずに凍え死んで行った者もいたでしょう。

 

なぜ、自分だけが、モチごときに恐れをなすことができるでしょうか。

 

 

一定の生命リスクを負い、星になった仲間に思いを馳せることは、年寄りの特権であり、義務でもあります。

 

 

おじいちゃん、危ないから気をつけて、などと止めずに、日の丸と掃除機を片手に、出征を暖かく見守ってあげてください。

 

 

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